空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

三浦瑠麗氏の公式マガジンブログ「自分で考えるための政治の話」を眺めての雑感

三浦瑠麗しの公式マガジンブログバックナンバー「Vol.39] (2018/8/1配信)

「中国恐怖症の誕生、第12回」を閲覧して。

 

日中貿易関係;:非対称の経済関係 (日本は、中国からの輸入が最も多い。にもかかわらず、日本での、中国の輸入品の存在感がない。)

以上の、三浦瑠麗氏のブログの導入部・最初の論旨の述べたいこと。その後で、企業合併や(M&A)の日本と欧州の環境の相違から来るにほんでの中国企業の躊躇などや、中国人による、不動産・土地の購入による、北海道などの水源地の買い占めの不安、米軍・自衛隊の基地の近隣地の買い占めによる安全保障への問題を指摘する識者がいることに対する問題がないという論説などが主であるが、ここでは、一番最初の冒頭に記した中国産製品に対する日本人の評価の低さに対する雑感と、産業工業化社会における必然性ともいうべきものであるとの筆者の認識のあれこれをここに記述する.

  中国に、進出している日本企業が生産した製品を、日本に輸出する場合(日本は輸入するという事になる。このような事は、グローバル社会の今となっては、ありふれたことで、例えば、日本の自動車産業アメリカやメキシコに、工場を建てて、生産している際の、アメリカ大統領の発言があれやこれやと問題になってるのはこの例である。) 中国産(Made in China) であることを隠すというか、表に出さないのが日本人の現在の普通の振る舞い・行動パターンであるようである。中国製品は、粗悪品のイメージがあるので、中国産製品を表に出すメリットが少ないのであろう。

  現在、日本製品は、高品質・高性能のブランドで世界に通用している、最近はちょっと違うようであるが、一応、1980年代かそのあたりから、高品質の日本製品という事で、世界の市場で認知されてるようである。しかし、筆者は、昭和24年生まれの高齢者であるが、子供のころ、新聞に目を通し始めたのは、小学4~5年の頃からで、即ち、1960年頃、少し前の頃からである。(昭和33~34年頃、日米安保改定が昭和35年、1960年である。) その時あたりか、その前の日本製品アメリカに輸出されたものは、即ち、戦後の昭和20年代か30年代の中頃までは、(1960年代の初期までは) 日本製品の一部分、あるものも同様に、粗悪品のイメージがアメリカの人々にあったというのが普通に思われていたものである。筆者の印象に残っているのは、戦後、日本のアメリカへの主力輸出品であった,「おもちゃ」(プラスチックは当時、発明されてなかったろうから、ブリキ製か、セルロイドとかの製品だったのではないかと思われる。) とかの軽産業製品は、現在の、或いは少し以前の中国製品と同様な扱いをアメリカで受けていたのである。アメリカの子供らが、何らかの記念日とかの時に、(たとえば、誕生プレゼント) Made in Japan の製品のプレゼントを受け取った時には、その日本製というのを

目にした時には、泣きじゃくって嫌だとわめく子供がいて、親に別のを買ってと駄々をこねたというエピソードをなにかの新聞か何かで読んだことがある。それ程、子供にとっても、日本製の製品が粗悪品・安物品というので通っていたのである。その後、電化製品などで日本製(Made in Japan) が良品・高品質・高性能の製品であると認知されたのは、昭和40年代から、(1970年代あたりから) ではないだろうか?即ち、何が言いたいのかというと、日本も、現在の中国製品と同じような粗悪品・安物品のイメージが付きまとわれた時期を経て、1980年代からの日本製品の高品質の信頼性の高いMade i n Japan の製品になってきたという事である。何事も、一足飛びに、高品質の製品の評判が得られるわけがないという事である。という事は、現在でも、中国製品のある分野の物は、高品質のものがあるのであるから、あと、10-20年もすれば、全ての分野の製品で、高品質の日本製品の品質を上回り、中国製の製品が,高品質・高性能を代表するブランドになる事になることが十分考えられるという事である。歴史というのは、そういうものである。でも、その様になるには、向上・改良・高品質を目指す努力が必要十分条件であるという事である。(その国の産業においてさえも、裏の、陰の事情は、人それぞれ、親などから言われるのと似ているが、個人の学習の努力とかと全く同様であるというのが、小生の推察である。) 中学二年の数学に出てくる数学の論理関係の、必要条件、十分条件必要十分条件等で表されるということでもある事をここに示しておこう。日本の輸入額で、中国からのが、世界で断トツでトップという事を、日本人があまり認めたがらないのは、中国という国・中国人に対する何か人種差別的な感情が心のどっかにあるからであろう。必要条件だけでも、十分条件だけでも、不足であり、必要十分条件でなければならないのは、工場での製造・改良・改善に努力したにも関わらず、必ず、品質が良くなり、他国で、評判が良くなり、イメージが良くなるとは限らないからである。ほかの例では、勉強を努力して、頑張ったけれども、必ずしも、試験とかテストの成績が点数が良くなる、上がるとは、限らないことであり、上記の日本の工業製品が良くなり・イメージアップしたのも、努力とか、環境とかの必要十分条件が要球された事を、日本企業の日本人経営者・労働者が努力して、頑張って満たし、乗り越えたのであり、クリアしたのであって、それと同様に、中国製が、今後、高品質製品として、イメージアップするかどうかの判定には中国企業の中国人経営者・労働者等が、日本における以前のと同様な(現在の日本がその様であるかどうかは、筆者には、分からないし、言えないという事だけである。)、必要十分条件の中国国家・国民、中国企業・中国人経営者・労働者等すべての勤勉な努力を要するのだけは確かであろう。 

ブログの開設のお知らせ;論説ブログ

(論説)ブログ;近代資本主義経済の基礎を築いた近代科学技術の種々の側面について、つたない議論を記述する。

資本主義経済の社会に於いて付きものの、貧困、低収入の人々への社会保障として、現在の生活保護支給の手続き、申請、認可等の煩わしさから解放する手段として、もう、よく知られている;BI(ベーシックインカム)、及び、所得税などの少額or赤字の人々のために、税還付付加給金等の制度を設けることにより、すべての人に最低限の生活保障をする、例えば、月7万円の支給をするとか、が考えられる。それ以上の収入は各々が勤めに出るとかは当然、本人の自由に任せられる。だが、失業とか、職が得られない時にでも、最低限の衣食住は得られる制度であるという事で、生活保護の様に、その都度申請しなければならないという事でも無くて、一律に、面倒な手続きも無く支給されるという事である。零細・小企業の経営者にとっても、例えば飲食店業などの店主さんにとっても、従業員さんに、一律に毎月、7万円が支給されているとすれば、経営が思わしくない時でも、何とかやっていける算段が付くものと思うのだが。単なる、岡目八目にすぎないかなー。

、まー、そのよーな、資本主義社会に就いての種々雑多なその時々の題目について、思い付きのまま、述べるブログになるやもしれぬ。ご批判大歓迎、なんせ、当方、何の肩書も、名誉も、何にもない浪人風情の70手前の高齢・老人にすぎませんので。

それでは、今日はこの辺で、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

今日は、午前中から、ベッドの上で眠くなっちゃって、全く、生活習慣とか、毎日の寝起きの時間が定まらず、どうしようかと毎日、おたおたしている。どうも、夜中に眠ると云う事にはならないようで、さりとて、昼の何時から何時に睡眠すると云う事も定まらず、とりあえず、日常の生活時間が定まらまいと毎日の生活がうまく回らない。とにかく、「厚志君」と俺と「美子君」の三人で、穏やかに生活のサイクルが回るようにしないととだけ思ってるのだが。とにかく、この世は、ままならない。

今朝の、BSTVで、大谷先生(東北大の有名な三兄弟教授(末の大谷南海男先生は、名工大の教授だったな。)) のお嬢さんの番組「音楽交差点」の番組に「はいだしょうこさん」(歌のお姉さんで以前出ていた方)が出演なさっていて、宝塚の出身だそうで、その宝塚音楽学校からの理不尽さ、一年学年が違えば、先輩、後輩の絶対服従関係とか、なんか、今頃、最近、問題に成ってるスポーツと全く同じであると、俺は、断じただけであるが。これは、何も、宝塚やスポーツだけでなく、日本社会全体に共通する、理不尽な非人道的・非民主的・差別的社会を表しているだけであると思っているが。はいだしょうこさんの、音楽学校の時からその変な規則というか、慣習は、学校の校則も似たようなものであろうと思ってるが、何とかというフリーのジャーナリストの人が、女子高生の校則の理不尽さ、僕から言わせると、バカバカしさ、学校の先生等は、男教師に限らず、女教師も含めて、そんな、校則で人格教育が出来るとでも思ってるのかいと思うだけである。それが、TVとかの放送とか、マスメディアにもあるのではと、日本社会全体にあるのではと、言ってるのだが、こちとら、何か、たった個人で社会全部からどうのこうのされてる60何年間かは、もしかして、犯罪を社会はやってるのではないのかと思ってるだけで、何の他意も無い。

   で、話を続けると、その大谷先生のバイオリニストのお嬢さんの番組中に、つらつら、思ってたことの、テーマというか、どうやって進めようか、文献・資料などはどうやって集めようか、参照しようか、こういう事は、俺の場合、学生のとこからの悩みで、まー、社会から排除されてるのかなんか知らないが、まゝならぬ、研究環境というか、研究という研究でもないが、この場合も、社会の犯罪と云ってるのだ、如何なんだろう。その、思ってたことは、母国語で高等教育を受ける事が出来て、研究というか、創造的・オリジナリティな事を思考・思索・考察する場合に於いてと、高等教育が外国語で受けざるを得ない環境で、研究の基礎・土台である知識体系が母国語でなく外国語である他国語の場合とでは如何なる差異・違い・相違があるのであろうかという事である。近代科学は、ヨーロッパ等の西欧諸国で起こり、中国の漢字の移入が元々の起源である日本語とヨーロッパ等のアルファベット文字であるのと言語体系の異なる日本では、専門用語等を、外国語から、日本語に当てはめ・造語して日本語だけで各分野の高等教育・大学教育を受ける事の出来る、稀な、もしかして、唯一の国、民族かもしれないと思っていたことが、この題目・テーマの思い付きの出発点である。大抵の、開発途上国後進国では、高等教育・大学教育は、外国語(英語、仏語、独語)で行われているものである。明治維新という中国由来の文明から西欧文明・近代科学へ国の基本を乗り換えるという大転換に於いて、筆者が思うに、その時代の日本の先人たちの一番の方針・功績・労苦・業績・評価される点は、外国語の学問的用語をすべて、日本語に置き換えて、日本語だけでその近代科学の分野をある程度勉学する、習得できるようにしたことではないかと思うのである。そのことで、日本人の大部分の人々(それ程の学歴がなくとも)が西欧近代科学とそれに付随する音楽・芸術等への接近・取っ掛かりが容易になり、後の世代の日本人が西欧近代文明を身に着け、さらに独自に発展させる事が出来たのではないのかという事である。(筆者の単なる推定・推測であるが)

  で、その違い・相違・差異を今現在、発展しつつある、脳科学の学問分野で考察しようと思うと、文献・資料の検索・取り掛かり・収集をどのようにしようかといつも思うのである。

今は、パソコンでの検索で一次資料の論文などにたどりつけるのだろうが、パソコンもいつも、何かしら、トラブルが起きて、ほーたらしにしておくことも多いのであるだけである。このような事は、筆者の場合、学生の頃から、日常茶飯事の事でどういう事なのかといつも思う事であるが。さて、上記の課題・テーマに関して、次の二点の項目が関係することで、先ず、調べなければ、即ち、文献検索・調査を行わねばならぬ。

1。人類が如何なる進化過程を遂げて、どの様な経緯で言語の能力を獲得する事・身に着ける事が出来るようになったのか?

2.人間の赤ちゃんが、その成長過程で、どの様にして言語・お喋りできるようになるのか・話す言葉を理解できるようになるのか、お母さんなどの周囲の環境条件などに依存するのか?などというのは、今、研究が進んでいるのは確かだろうが。

上記の、1.2.の事が前述した研究の母国語と外国語である他国語での思索・思考・考察での脳科学的解明の出発点になるのではと思ってるだけであるが、どの様に進めようか、社会の排斥・妨害のようなのは、学生時代からもう、40~50年もつづいているからなー、社会の人々に尋ねてみよう?今迄、駄目だったんだから、どうなんだろうなー?などと、思い煩ってる、今日この頃であるのだが?

人間の思索・思考・精神作用における言語の果たす役割、及び「犯罪行為」の指摘

先程、以前からパソコンに打ち込んでいる種々雑多な 文章の中で、資本主義経済社会における近代科学に加わる事が出来た有色人種として、日本人を挙げていたが、どうも、日本よりも、10年か20年早くインドにおいて物理学でなし遂げていたようである。その事に就いて、インドは母国語というか、共通言語が英語であるが、イギリスから直接影響を受けているのは、明らかであり、それに反して、日本は、英語等と言語体系が全く異なる日本語で科学学術活動が為されているという事である。それから,以前から、筆者が思ってたことは、創造性というか、科学技術等の知的精神活動は、母国語でなされる事が、ある程度影響を与えるのではないかという事である。それらの考えの源泉は、新興国というか、発展途上国は、高等教育は、大抵、母国語で行える環境になく、英語とかの外国語でおこなわざるを得ないという事である。

まー、上述したことは、若い時から、つらつら、思ってたことの一部の事であるが、世間にとっては、何の事でもない。

今日、アマゾンから宅配が届いた。中身は、幸田浩子の「優歌」と田中彩子の「クラシックの何曲かの歌曲」どちらもソプラノとCDに記しているが、全く異なる印象である。あと、本が、一冊はいっていた。

昨日から、ドメインの登録をしなければならないという連絡が来て、全く、自慢ではないが、不得手のド素人だから、ドメインを何で登録しなければいけないからそこから、何故と思って、先ほど、何とか、ドメインのプロテクションの登録迄終わったから、いいのかなと思ってるのだが。ほんと、20~30年ほど前に、後輩の(後輩と言っても、米谷君と増田君は俺なんかをしがにもかけなかったろうが。) 研究員が、インターネットの建物ごとの配線から設定まで行っていたから、今、自分でやらなければならないとしたら、とてもできないなーと。当時の彼らは、すごかったんだなーと思うだけである。彼らは、応用化学というか、化学工学の専攻だから何処で、どの様にして、それだけの情報・通信の知識・技術を身に着けたんだろうと不思議に思ってただけであるが。そういえば、筑波のスパコンに繋がってる、研究室の端末パソコンをいとも簡単に操作するのも、俺なんかには、彼らからこのボードの何々を押して、その次に、何々を入力して、と教えられた通りに、ノートに手順を記述したとおりにやっても作動かなくて、彼らの居室に、質問、聞きに行くと、さも迷惑そうにこうこうこう云う風にすればいいなどとマー、一応教えてくれてたけど、俺には、出来なかっただけである。そんな風であるから、システムエンジニアが前職で、余りに仕事がきつくて、徹夜なんか当たり前なので、仕事をやめて、研究所の派遣というか、非常勤の職員になられている女性もいたりするから、すぐに、聞きに行くと彼女ら専門の人にとっては、バカバカらしいものであろうから、そんな丁寧に教えたくもないのだろうが、一応、やってきて、俺が操作すると、わずわらしいのか、見てもいられないのか、チョット、どいてとか言って、彼女が操作してしまって、俺のパソコン・IT技術は一向に向上しないのである。まー、総じて、パソコン操作などが得意な女の娘も研究所には珍しくも無かったので、親切に教えてくれたように思う。前記の、専門のSE経験者と東北大金研でドクターを取って、ポスドクで、東北工業研究所で研究を行っていた韓国から東北大への留学からの女性研究者は、彼女も迷惑がらずに教えてくれたが、今、考えると韓国とのなにか、色々関係する事があったのかなー、それでかなー、思ったものである。というのは、何か知らないが彼女の腐食の専門書、勿論、英語の洋書がここの家の本棚にまであったからである。まー、俺の悪い癖で、聞いたり、教えてもらってできるなら、それで済まそうという浅はかな考えの研究態度で進める邪道的何事もの進め方の方針の考えを持ってたので、そのつけが何時までも付いてきて、誰もサポートしてくれる人がいなくなると困るだけなのである。自業自得である。でも、通常、勤務先においては、仕事の進めるにおいて、色々、討論するとか・議論するとか、こういうのはどうするんだろうとかのお互いの意見交流とかはするのが、普通であると思うのだが、俺の場合は、東大の駒場の最初の講義を受けた場合の日本を代表する大数学者からの「いやがらせ」を記したように、その様な研究を進める研究所に於いての扱いというか、対応、応対は、ずっと、記述しているように、TVとか、社会とかのどうのこうの云ってるのと、全く同じであろうと思うだけである。

甲子園の高校野球テレビ朝日の中継放送で、桐谷美鈴さんが「女の子だって、甲子園」と言って、桐谷花鈴のマウンドとかCMで言ってたので、女の娘について、思ってたことと、合致するのかな、合うのかなと思って、アマゾンに新書で発注したら今日届いていた。何か、今迄の、俺の環境というか、応対された事などから、女の娘も、子供手当や、奨学金や、BI(ベーシックインカム)などの手当てを、どの女の娘にも与える制度・示事をしてもらって、最低限の衣食住を保証することで、種々、色々な性的など女性と云うだけの不利益を受けなくても、その先は各々の個人の進みたい方向にどの女の娘も進めばいいのでは、そうすれば、何か理不尽な苦労をしなくても済むのではと思っていたから、何とか「甲子園」で、それが出来れば、いいのではと思っていただけである。それは、何も、女の娘に限らず、男の子でも同じであろうが、俺なんかのいう事でもないのだが。どうなんだろうか、何かどの様にすれば、恵まれた女の娘だけでなく、すべての男の子・女の娘が各々の意に反した仕事などをしなくても済む事が出来るのだろうか?

俺などが、いう事でもないのだが。ただ、最低限の衣食住が保証されるだけで、志のある子は先々に進む事が出来るであろうし、現在の、貧困家庭層の子供等にとって、衣食住が保証されてるだけでも安心なのではなかろうかという事ですが。

まー。劣等生のくりごとである。何のことでもない。

最後に、森麻季さんの「アベ・マリア」(女の娘・女性の事ついて思った大学生時代の「小さな日記」と共にその歌詞から考えさせられた曲である。) とデビュ―CD「あなたがそばにいたら」の、これまた、ソプラノのうたごえをながしている。

 

ブログ「空想四方山話」の今後の内容・構成に行いて,1.遭遇する「犯罪行為」のメモ、2. 今迄の「犯罪行為」のメモ、3.購入した物品・書籍等の仮帳簿(社会への報告)、4. 書籍等の評価・感想、5. 日々の人生・社会評論

今日、もう昨日になっているが、此のブログ表題も変更して、別に「Office365」における記述の欄というかとの区別を如何様にするかと、つらつら昨日から思いめぐらしているのだが、「家の子供」に何時もの通り、言われて、お茶のペットとか買いに行ったファミリーマートのコンビニで相変わらず、「犯罪行為」をやっている若者らしきものが店内でわざとらしく居たので、そいつの回りに行って無言のまま、一体何故お前はそのような行為を説明もしないでやってるのかと思っただけである。俺の処の奥さんは相変わらず「郵便貯金カード」「生協COOP家族カード」等を渡しておいたのを、一体どの様にしたのかも、全く説明もない。前回以前のブログにも記述しておいたので、俺が指摘しておいただけである。俺の処の奥さんには、大人・社会人なのに「俺の処の娘さん」「俺の処の子供さん」君の親として、そんな、道徳に反する行為をやってよいのだろうかと言っただけである。社会の他の人々は、家族の一員でもないのであるから、今迄の60何年かの事を記述して、繰り言を述べているだけであるが。それで、社会に、「俺のとこの娘さん」「俺のとこのお子さん」の出生の事からでも、説明せねばならないのではと云うているだけである。「俺のとこの奥さん」単独で、そんなことを出来るわけでないのは明らかであろう?社会の輩らが、知ってはいたが、俺等は関係ないなどどいうのが、人権的に、人道的に、道徳的に、人間として、社会的に通用するだろうかと、問うているだけである。今まで、60何年間か、差別・排斥・排除しておいて、そのような事をするという事は、心の奥底に、心情として、そのような事を認めているという事であろう。そうでなかったら、その様な社会の在り方は、その様に行っている者がいるのであろうから、それらの輩等に、如何なんだと言えばいいだけの事である。何、俺が、生まれも、育ちも、勉強もできないから、差別・排斥・排除しただけであるなら、そんな、人として、人間として、道徳的・人道的・社会的にどの様に思われるのか、俺なんかより優秀で出来る皆さんなら当然お分かりである筈です。何も俺にどうのこうの言うものでもない。「責任は取るのですか?」と俺の奥さんに問うているだけだし、社会の人々の輩等にも問うているだけなのですが?ちょっと、パナソニックのラジカセでNHK第一のラジオ放送で、またまた、侮辱された放送を聞いたので、少し長めの文章になった。

  で、このブログは、表題のような内容と、構成で記述することで、今後、行っていこうと思う。

  「Office365」の方は今迄どうりで、少し、科学技術論的な内容で、資本主義経済社会への筆者なりの愚論というか、自分なりの自己勝手な論説を記述してみたい。

「もの言えぬ時代」(朝日新書);+する提言ならぬ繰り言:1. [100回目の夏 開幕] (朝日新聞:2018/8/6) だそうだ。

甲子園の高校野球がTVで放送されている。

その放送で、放送しているアナウンサーや解説者やその他が、地球温暖化等々、異常気象とかに関する事を云ってるらしいTVの番組での、所謂、学歴のあるある人々の意見というか認識を聞いて、記述しておくこと。

気象変動の原因は、よく知られていると思うが、筆者の認識では、以下の3点が主要であり、地球温暖化がそのこと以外であれば、その番組で出演していた、何か、元皇族の竹田何とかとかいう以前慶応大学の教官やってたらしい。その他の、MCの辛坊何とかとか、元東京新聞の何とかとかいう記者とか、その他、よくTVに出演している優れた学識のある人格者の人々らであろうが?

Ⅰ. 一番の基本は、当然のことであるが、地球は、太陽系の中の衛星の一つにすぎないから、地球の気象は、太陽活動の変動・変化に依存・左右される。(太陽活動は、主に、黒点の数の増減により、活発さというか、活動度が異なっているという事が、長年の「太陽を専門とする研究者の仕事」の中で、最も基本的な太陽表面に関する観測により明らかにされている。所謂、11年周期である。黒点の数が、凡そ、11年で、殆ど黒点がなくなる最小の数の年から、最も多くなる最大の数になる年度までを、約11年ごとの周期で繰り返しているという事である。黒点の数が多くなると、どの様な経緯で、太陽活動が活発になり、それが如何にして、地球の気象に影響を及ぼすのかについては、現在でもなお、研究者の研究の対象になっておられるのか、筆者は、ド素人なので分からない。) 11年周期というのは、短期間周期で、それ以外に、数十年・数百年単位の周期があり、又、その上に千年・万年単位の周期があるので、地球が氷で覆われた氷河期とか現在のような温暖である間氷期とかの時代があるのであろう。小生は、ド素人なので、正確さに欠けるやかもしれないから、公表するには、少し調べる必要がある。

有名なテムズ川が氷結して、その時のロンドンっ子が氷ったテムズ川川面での様子の絵画が残されているので、その絵画が描かれた時、即ち、16世紀頃からから、17世紀にかけて起こった小氷期と呼ばれる寒冷期が良く知られている。であるから、今から、凡そ、300年とか500年前の事である。で、その絵画を見た時に、筆者が想像したのは、ヨーロッパばかりでなく、全世界的な気象現象であろうから、飢饉というか、農作物の生育に影響を及ぼし作物が実らず、世界の各地で食糧不足に陥ったのではないかという事である。日本での、1528年頃の厳寒で琵琶湖結氷とか、室町・戦国時代から江戸時代にかけて何回か起こった飢饉も(室町時代の1460年頃の大飢饉~1490年頃の尾張・美濃等の飢饉~1499年頃の東国諸国の飢饉~1505年の陸奥大飢饉とか、1641~2年頃の寛永の大飢饉、1681年頃の天和の長崎・関西・関東の飢饉、1695~1702年頃の元禄の北陸・奥羽・松前飢饉、1755年頃の宝暦の大飢饉,1836年頃の奥州が特にひどく全国規模の天保の大飢饉)この事と関係するのではと推定していただけであるが。何も、専門家ではないので、単なる推測であるが。

Ⅱ. 火山などの大噴火により、大気中にガス成分・微粒子・チリ・微細砂土等が噴霧される事により太陽の光線等が遮られ、地球全体が寒冷に陥ることが歴史的にも度々見られらた。

Ⅲ. 隕石の地球への落下・衝突により、大噴火と同様に岩土砂の大飛散が大気中・地球顔に起こり、地球の気候の大変化が起こる。例えば、約6千年前に、中南米、メキシコのユカタン半島付近に大隕石の衝突・落下があったとされ、地球の気候の大寒冷・生物の滅亡が起こり、恐竜が滅亡したといわれる。その時代の哺乳類は、ネズミか、小ウサギの類の物であり、かろうじて生き残り、それから、6千年の時を掛けて、進化し、現在の哺乳類、特に人類の支配する・繁栄する現在の地球上の生物・動物の様相になったというだけである。もし、6千年前に、大隕石の落下・衝突がなかったら、現在も、恐竜の支配する地上の動物の世界になっていたのであろうか?

 

それとは別の気候変動とされる、気象異常とされる地球温暖化現象は、次回に記述する。

尊敬する反権力主義者山本義隆氏への個人的憧れ・尊敬・嫉妬・失望(全く迷惑であろうが山本氏への憧憬などアイドルのファンのと同じである(以前、高校の時、数学者・岡潔のファンだったことも述べた))

前回のブログの叙述で、山本義隆氏の著作「近代日本150年」科学技術総力戦体制の破綻 (黒船から福島まで): 本の帯の文言[岩波新書 創刊 80th ; 日本には、新書がある。]

黒船(1853年;ペリー率いる軍艦);福島(当然、福島原発事故の1F原子力発電で、米国からの導入) 資本主義経済社会の論説で、当然、アメリカの資本の日本占領・支配の事は、一番最後に、述べようとは思っていただけであるが、山本氏の著書の帯の文がそれを表しているのではと想い、冒頭に記述したまでである。「国家の品格」の項で同様に述べようと思ってたが、マスコミ、マスメディア・特にTVなどの電波放送の同様なアメリカによる占領・支配が為されていることも、記述せねばと思ってただけである。そこで、何時も山本氏の著作で思ってたことは、そのことを、述べてないのである。少なくとも、表に出して記述しないのである。それが、表題の山本氏への失望と記したもので、でも、社会的に、名が表に出ている(例え、思想犯として刑務所に拘束された体験があるとしても) 身では、俺なんかの、山形の山奥の田舎出で劣等生・何の取柄も持たぬものとは違うのであろうと思ってただけである。(俺なんか、例え、表に出しても、何にもならないだけだろう)  俺みたいな、何の考えも取り立てて無い人間でも、之だけは、確実に思う事は、山本氏の年代(多分、俺が大学に入った頃に、大学院の博士2~3年だったろうから、俺より、8~9歳年長の筈である。という事は、現在、77~78才位か、因みに、俺が修士の時に就いた菊田先生は、10歳上だったから、物理学科の学部の時、1学年か2学年の違いである。師事した菊田さんに面識があったのかどうか尋ねてみようかとも思ったが、躊躇した。なお、この時代の理学部物理学科の定員は、8~10名位で、真の本当の秀才の集まりである。俺らの時には、定員が50~60に増員されたのだから較べるまでもない。) の人々の中には、その様な、日本の国家状況(第二次世界大戦からの敗戦・占領・軍事同盟・資本の支配・文化の影響)に愁いを持ってた心底から社会を考えてた人々がいた筈ではないかと思っていて、その代表・象徴として山本氏を挙げていただけであり、このような愚文に取り上げさせてもらっておるわけであるが、山本氏には当方の勝手な思い・考えなど知る由もないわけで、そんなの迷惑千万であるに違いない。そこは、立派な人格の名の知られた人物の有名税として許してもらいたい。なお、山本氏の著作は、最初、「知性の反乱」多分、全共闘の主義主張と思い、読んでいない。その当時に、ニールス・ボーアの論文の翻訳で「ニールス・ボーア論文集」というのを出していたと思う。アインシュタインの、翻訳をして論文集を出すのなら、まだ、一般の人々の読者もつくだろうから理解できるが、(実際、アインシュタインの翻訳は、昔は、石原純の物から、結構、現在まで相対性理論の論文そのままの翻訳迄出版されている。) 前期量子論などは、教科書に必ずでているから、一応、専門の学生以上にとって、必ずしも翻訳本が必要でもないと思ってたのであるが、そのテーマ・内容が、必ずしも一般の人々の興味を引く事でもない。後の、量子力学のボーアによる「コペンハーゲン解釈」でも、物理の学生にとっては、必要不可欠であろうが、一般の人々にとっては、何のこっちゃというものであろう? まー、刑務所明けの、30歳前半からの、手始めに、専門の数式を用いない科学哲学・技術論などに入る手始め、手慣らしであろうと思っていたのだが。その後、何か、翻訳本が10冊近く、著作が30冊近く出版しておられる。予備校で教えておられながら、之だけの著作を出されるのは、やはり、例え、東大に出入りが出来ぬとはいえ、俺が知っているのは、明治大学の物理の教官をしている親友が研究室・図書館などでの資料の検索・収集に協力しているようであり、又、学習院に江沢という若手に場の量子論の研究会を開いている大御所も多分山本に手を差し伸べていたのだろうと思っていたのだが。まー、これらが憧れ・尊敬・嫉妬の感情を俺に植え付けていただけである。当方の心の狭小さをさらけ出しただけである。

まだまだ、記述する事があるのだが、もう、疲れてきたので、今日は、ここまで。