空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

TVなどの番組で、評論家の先生方や、政治家の方々、その他の、所謂、学識者と言えるような方々が、政治討論番組やその種の番組に出演されていて、以前から思うに、(何も、全くわかっても無くて、見当違いの把握なのだろうか?)いろいろ議論とか、討論とかやられていても、別の処で物事が決められ、決まっていくのだちしたら、何かは分からないが、そうではないかと疑問に思ってただけであるが、それだったら、何も、本当は、議論とか、討論とかする必要も無いのではないか(?)と、思ってしまって、TV等で、本当に、社会の主要なポジションを占めているような方々が(要職に就いているような方々)そんなんでやられているのだとしたらどうなのかと思ってしまうのである。そんなんで、TVに向かって、罵りの怒鳴り声などを,まま,出してしまう事もあるという事である。(60何年間かの社会環境で受けたPTSDの所為であるとも言ってるだけであるだが。)どうなんだろう?そこの辺の処のしくみというか、納得が出来れば、大体の処、俺なんかの人生最大の難問と想ってた事が氷解するであろうと思ってるのである。自由社会、民主社会、等々を標榜していながら(先日のTV番組で、ギリシャアテネを訪れる紹介する中で、一般市民を前にして、プラトンソクラテスが今にも伝えられ、残ってるギリシャ哲学を開陳したのであろうとかの遺跡場所を訪ねていたが、俺なんか、そういう時すぐ思うのは、ギリシャ時代の市民というのは、現代の、例えば、お若い人が思い浮かべられる普通の人々・日本の国民の様なものとは、全く異なる特権階級の人々であることを、前提に思い浮かべないと、勘違いをしてしまうと思うのである。ギリシャ時代の一般市民などの階級の人々は、労働作業などを全くする必要のない階級の人々で、奴隷の人々が労働を行っていたのである。であるから、一般市民の人々は、外の道端で、路傍で、哲学談義に耽る事が出来、あのような現代の世でも、立派な学問としての、ギリシャ哲学として確立されているのである。)教育(学習・勉学)を自由に受ける権利、職業(仕事・労働)選択の自由を有していなかった俺の60何年かの来し方を当てはめて考えているだけであるが。まー、社会の人々にとって、なんてことないのであろうが?それに関して、近代科学技術の目的に一つとして、上述の様な、重労働から人々を開放するという事があるのは明らかである。例えば、アメリカの大陸横断鉄道は、中国からの移民の人々の人力による鉄路の敷設によってなされたことなどよく知られたことである。(日系移民の移住の以前の時代頃である。)産業革命以前は、すべて、農作地の開墾・鉱山・炭鉱などすべて人力の重労働を要していたのである。資本主義経済社会における科学技術の為すべき目的に、労働者としての人・人間から、これらの重労働を開放するという事があるのは、当然の事であろう。先ほどのNHKのTV番組で、重機というか、従来は人力に頼らざるを得ない重労働に変わって機械作業に行わさせるのは、日々、年々、新たな、新製品が社会に登場し、見られる風景である。その番組では、ウルトラ重機(とてつもなく大型重機)での露天掘りの鉱山・森林伐採等々を放映していたが、何も、大型機械・機器でもなくても、身近な、生活向上有用便利用品としての、家電製品・住居用品・医療機器・衣服・化粧機器などすべての面に渡るのであるのは、誰でも実感する事であろう。で、行きつくところは、如何なのであろうかという事である。最近、AIの発達により、人・人間が行っている仕事が奪われる、現在の仕事の、凡そ半分は必要でなくなるとか、AIが人間を凌駕してしまう、駆逐してしまうとかの議論がなされているが、上述の資本主義経済の科学技術の目的が、人間からの重労働の解放、さらに、労働からの解放、ますます便利な社会の実現(この事が即ち、労働からの解放であったが、近ごろ、逆に、体に負荷をかける、即ち、運動施設・器具・機器の開発もなされるというのは、皮肉と言うか、体を動かしていた労働からの解放が行き過ぎて、体を動かさないからの健康に害する面からの予防の段階に行きついていることは、俺が思うには皮肉と言うしかないと、でも、こんなことは言ってはいけない社会なのであろう。)俺が思うに、労働からの解放を資本主義経済の科学技術の目的としていたのであるからコンピューターのプログラミングによる制御から学習することによる知能の進化へと展開させることでの単なる計算機から人工知能(AI)に発展させた情報科学者は、上述の資本主義経済下での科学技術の展開に当てはめれば、人間・人における労働を軽減する道の実現にあるのであるから、最終的に、人・人間に労働の全く必要としない世界を目指しているのかと、拙者は勝手に思っていたのである。もう、ずっと以前に、生物化学・バイオ技術やナノテクノロジー・ロボット技術にAIを組み合わせれば、人造人間というか、模擬的人間の作製も可能ではないかと思うのであると述べた事がある。そんな、人が、人間が創り出した生物としての、即ち、生き物の人間と言えるかどうかは、生き物・生物をどのように定義するかの人類社会の問題だけであろう。そこで、BI・ベーシックインカムで生活上の・必要最低限の衣食住が保証される給付金を給付し、人生で何を行うかは、各人一人一人に任せらるほかは無いのではないかと思うのである。当然、社会運営・国家運営、人々の生活上の必要用品を生産、送り届けるサービス的運営などに従事せざるを得ない労働を行う人々は必要とされるだろうが、徐々に、時代が進むにつれて、必要とされる人員が低下し、労働を行う必要のない人の割合が増えていくであろうという事である。で、音楽・絵画等の芸術の趣味での取り組みや、職業的にではなく、農作物・果樹・花卉・家畜・魚等々の育成・栽培・養殖・捕獲等々の趣味での取り組みにはげむ人々もおられることになろう。当然、スポーツに取り組む人々のおられようが、その時代におけるスポーツの目的が、現在の様な、勝利至上主義で、その事により、利益を得るとか、収益を得るとかとは異なり、趣味的な要素が全面に大部分になっていくので、例えば、現在、日本のスポーツ界で問題となってるいような、オリンピックのメダルを取るためにコーチングスタッフの強圧的指導とか、暴力的指導などは全く必要としない、起こる事のない、スポーツを行う個々人が自分に合ったやり方・方法を自分で工夫してトレーニングを行う、勿論、助言・アドバイスを受ける事などはあるだろうが?そのような世界になっているだろう。その際に、社会の治安というか、安全な社会をきちっと保つことが国家というか、政府に要請される、他の外国諸国との友好関係を保つ事の為に外交上の努力を惜しみなく務める事などと一緒に、国家の第一の前提条件になるであろう。ここ何年かの、筆者に起こった社会的抑圧というか、犯罪的環境の有様を見ているとそのようにしか受け取れないので、上述した論旨の記述に至ったというだけである。

  最近のTV等の番組を見ていると、以前に論説を張っていた、強圧的、犯罪的対応・言辞の放送を行っていた(筆者の単なる受け取りであって、感じていた事であって、その様でなかったとしたらキチンと相対した時に述べてもらいたい。)出演者が見られなくなっているのかなーと思うのだが、どうしたんだろう。ここ最近も、時々、TVに向かってどころか、道すがら、通りすがりにわざとらしくしている人々、之も幼い時から見られる犯罪であるが、と共に紀伊国屋等の書店とか、お店などでも、どの様な人として、人間としての心持をお持ちなのか、何かあるのであれば、きちんとおっしゃればいいだけの事である。俺は、あずかった「知佐子」と「厚志」に、俺の行動、言ってる事等々が、何故なのか等々は、きちんと叙述して、伝えているつもりであり、今後も残しておくつもりである。そもそも、社会の人々は、「知佐子」と「厚志」の、俺に預けた事さえ説明してないではないか?その事からでさえ、どの様な社会を創成したいのか以前の問題として、尋ねているのであるが?