空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

TVなどの番組で、評論家の先生方や、政治家の方々、その他の、所謂、学識者と言えるような方々が、政治討論番組やその種の番組に出演されていて、以前から思うに、(何も、全くわかっても無くて、見当違いの把握なのだろうか?)いろいろ議論とか、討論とかやられていても、別の処で物事が決められ、決まっていくのだちしたら、何かは分からないが、そうではないかと疑問に思ってただけであるが、それだったら、何も、本当は、議論とか、討論とかする必要も無いのではないか(?)と、思ってしまって、TV等で、本当に、社会の主要なポジションを占めているような方々が(要職に就いているような方々)そんなんでやられているのだとしたらどうなのかと思ってしまうのである。そんなんで、TVに向かって、罵りの怒鳴り声などを,まま,出してしまう事もあるという事である。(60何年間かの社会環境で受けたPTSDの所為であるとも言ってるだけであるだが。)どうなんだろう?そこの辺の処のしくみというか、納得が出来れば、大体の処、俺なんかの人生最大の難問と想ってた事が氷解するであろうと思ってるのである。自由社会、民主社会、等々を標榜していながら(先日のTV番組で、ギリシャアテネを訪れる紹介する中で、一般市民を前にして、プラトンソクラテスが今にも伝えられ、残ってるギリシャ哲学を開陳したのであろうとかの遺跡場所を訪ねていたが、俺なんか、そういう時すぐ思うのは、ギリシャ時代の市民というのは、現代の、例えば、お若い人が思い浮かべられる普通の人々・日本の国民の様なものとは、全く異なる特権階級の人々であることを、前提に思い浮かべないと、勘違いをしてしまうと思うのである。ギリシャ時代の一般市民などの階級の人々は、労働作業などを全くする必要のない階級の人々で、奴隷の人々が労働を行っていたのである。であるから、一般市民の人々は、外の道端で、路傍で、哲学談義に耽る事が出来、あのような現代の世でも、立派な学問としての、ギリシャ哲学として確立されているのである。)教育(学習・勉学)を自由に受ける権利、職業(仕事・労働)選択の自由を有していなかった俺の60何年かの来し方を当てはめて考えているだけであるが。まー、社会の人々にとって、なんてことないのであろうが?それに関して、近代科学技術の目的に一つとして、上述の様な、重労働から人々を開放するという事があるのは明らかである。例えば、アメリカの大陸横断鉄道は、中国からの移民の人々の人力による鉄路の敷設によってなされたことなどよく知られたことである。(日系移民の移住の以前の時代頃である。)産業革命以前は、すべて、農作地の開墾・鉱山・炭鉱などすべて人力の重労働を要していたのである。資本主義経済社会における科学技術の為すべき目的に、労働者としての人・人間から、これらの重労働を開放するという事があるのは、当然の事であろう。先ほどのNHKのTV番組で、重機というか、従来は人力に頼らざるを得ない重労働に変わって機械作業に行わさせるのは、日々、年々、新たな、新製品が社会に登場し、見られる風景である。その番組では、ウルトラ重機(とてつもなく大型重機)での露天掘りの鉱山・森林伐採等々を放映していたが、何も、大型機械・機器でもなくても、身近な、生活向上有用便利用品としての、家電製品・住居用品・医療機器・衣服・化粧機器などすべての面に渡るのであるのは、誰でも実感する事であろう。で、行きつくところは、如何なのであろうかという事である。最近、AIの発達により、人・人間が行っている仕事が奪われる、現在の仕事の、凡そ半分は必要でなくなるとか、AIが人間を凌駕してしまう、駆逐してしまうとかの議論がなされているが、上述の資本主義経済の科学技術の目的が、人間からの重労働の解放、さらに、労働からの解放、ますます便利な社会の実現(この事が即ち、労働からの解放であったが、近ごろ、逆に、体に負荷をかける、即ち、運動施設・器具・機器の開発もなされるというのは、皮肉と言うか、体を動かしていた労働からの解放が行き過ぎて、体を動かさないからの健康に害する面からの予防の段階に行きついていることは、俺が思うには皮肉と言うしかないと、でも、こんなことは言ってはいけない社会なのであろう。)俺が思うに、労働からの解放を資本主義経済の科学技術の目的としていたのであるからコンピューターのプログラミングによる制御から学習することによる知能の進化へと展開させることでの単なる計算機から人工知能(AI)に発展させた情報科学者は、上述の資本主義経済下での科学技術の展開に当てはめれば、人間・人における労働を軽減する道の実現にあるのであるから、最終的に、人・人間に労働の全く必要としない世界を目指しているのかと、拙者は勝手に思っていたのである。もう、ずっと以前に、生物化学・バイオ技術やナノテクノロジー・ロボット技術にAIを組み合わせれば、人造人間というか、模擬的人間の作製も可能ではないかと思うのであると述べた事がある。そんな、人が、人間が創り出した生物としての、即ち、生き物の人間と言えるかどうかは、生き物・生物をどのように定義するかの人類社会の問題だけであろう。そこで、BI・ベーシックインカムで生活上の・必要最低限の衣食住が保証される給付金を給付し、人生で何を行うかは、各人一人一人に任せらるほかは無いのではないかと思うのである。当然、社会運営・国家運営、人々の生活上の必要用品を生産、送り届けるサービス的運営などに従事せざるを得ない労働を行う人々は必要とされるだろうが、徐々に、時代が進むにつれて、必要とされる人員が低下し、労働を行う必要のない人の割合が増えていくであろうという事である。で、音楽・絵画等の芸術の趣味での取り組みや、職業的にではなく、農作物・果樹・花卉・家畜・魚等々の育成・栽培・養殖・捕獲等々の趣味での取り組みにはげむ人々もおられることになろう。当然、スポーツに取り組む人々のおられようが、その時代におけるスポーツの目的が、現在の様な、勝利至上主義で、その事により、利益を得るとか、収益を得るとかとは異なり、趣味的な要素が全面に大部分になっていくので、例えば、現在、日本のスポーツ界で問題となってるいような、オリンピックのメダルを取るためにコーチングスタッフの強圧的指導とか、暴力的指導などは全く必要としない、起こる事のない、スポーツを行う個々人が自分に合ったやり方・方法を自分で工夫してトレーニングを行う、勿論、助言・アドバイスを受ける事などはあるだろうが?そのような世界になっているだろう。その際に、社会の治安というか、安全な社会をきちっと保つことが国家というか、政府に要請される、他の外国諸国との友好関係を保つ事の為に外交上の努力を惜しみなく務める事などと一緒に、国家の第一の前提条件になるであろう。ここ何年かの、筆者に起こった社会的抑圧というか、犯罪的環境の有様を見ているとそのようにしか受け取れないので、上述した論旨の記述に至ったというだけである。

  最近のTV等の番組を見ていると、以前に論説を張っていた、強圧的、犯罪的対応・言辞の放送を行っていた(筆者の単なる受け取りであって、感じていた事であって、その様でなかったとしたらキチンと相対した時に述べてもらいたい。)出演者が見られなくなっているのかなーと思うのだが、どうしたんだろう。ここ最近も、時々、TVに向かってどころか、道すがら、通りすがりにわざとらしくしている人々、之も幼い時から見られる犯罪であるが、と共に紀伊国屋等の書店とか、お店などでも、どの様な人として、人間としての心持をお持ちなのか、何かあるのであれば、きちんとおっしゃればいいだけの事である。俺は、あずかった「知佐子」と「厚志」に、俺の行動、言ってる事等々が、何故なのか等々は、きちんと叙述して、伝えているつもりであり、今後も残しておくつもりである。そもそも、社会の人々は、「知佐子」と「厚志」の、俺に預けた事さえ説明してないではないか?その事からでさえ、どの様な社会を創成したいのか以前の問題として、尋ねているのであるが?

 

托鉢僧・物書き・河原乞食・白拍子・歌舞音曲・霊媒師・神事祭礼統治ーー生物としての人間の生存に最低限必要不可欠な生産物を創らない人としての矜持

自分は、「農作物を収穫できる田畑」を有してはいないし、所有できる環境にもなかった。「漁業」に携われる技量も手段・道具も有してはいない。さりとて、何らかの生活用品物・衣服・家事用具・居住所建築等々の所謂「職人さん的技術」を有してもいない。即ち、生き物としての生活手段をゆうしてもいないし、創り出すことも出来ない、通常の生物・動物であれば生きながらえる事すら危ぶまれる人種であろう。それで、表題の等々の職業というか、従事している人々について思う事があるのである。何も、それらについている人々のこと自体をどうのこうの言おうとしているのではない。逆に、自分自身の事を思い、考えているのである。

  昨日、「E-Girls]」とか「ももいろクローバー」のDVDを見ていた。表題の、「歌舞音曲」に所属するのだろうが、まだしも、俺なんか、何もできないのだが、彼女らは、「歌舞音曲」での技量を公の前で披露できるのであって、即ち、その腕前の披露により生活に必要な物品と交換できるという余地・望みがあるのだから、俺が、社会から遮断されていた、何か働く・労働しようにも、排除・排斥・差別(学生時代の事柄は一部記述してある。)の中で、技量の向上も出来なかったのに比べれば、まだしも、ずっとよい方であろう。

  先日、さくらももこさんの事が、報じられていた。実は、田舎の山形に実家で姪の知智ちゃんと佳代子が小学・中学か高校生の頃に、姉妹そろって(姉の方が5~6歳年上である。その間の出産が流産で間が開いた。)何かの集まりや、親戚の寄り合いなどの席で、度々歌っていたものである。俺なんか、何回聴いたのだろう。その歌詞で「エジソンは、偉い人、そんなの常識~」というのに来ると、またまた、このご姪御さんのお二人は、元気一杯に,声を張り上げるのである。その、姉の方の知智ちゃんは、山形大から、男兄弟がいないといってのおやの兄夫婦を思って、地元に就職しなければと担当の教授に頼み込んで、企業など数少ない山形で職を得た。その知智ちゃんも、もう,

50歳になろうとしているのだから、年月の巡るのは早いものである。佳代子は千葉大に行ったが、卒業したとの連絡後、全く俺の処には音信不通になっている。兄夫婦や姉の知智に尋ねても知らせてはくれなかった。まー、それはどうでもいいが、兎に角、「エジソンは偉い人、そんなの常識~、タッタ、タラタラ、ピーヒャラ、ピーヒャラ、お腹がすいたよ!」の歌詞だけであるが。

  表題のうち、「歌舞音曲」の事に就いて、若干、思っていることを記述したが、お若いお嬢さんがたは、自分自身を大事にして、自由に、人生を大切に生きてってほしいと思う。もう70才も近い老齢の何も思ってたことも出来なかった人生を送らされた人間からの想いである。

資本主義経済社会の最終的形態に就いての推論

昨夜、BS日テレ「深層NEWS」で諸外国に比べての、特に、中国に比較しての、我が国のキャッシュレス化の遅れに就いて、その前日には、クールジャパンに就いての議論を放映していた。筆者が思うに、資本主義の基本的定義は、「貨幣」「通貨」を用いて、経済活動を行い、イタリアの都市国家に於いて、特に、メディチ家に於いて、「利子」の概念が発生し、その活用を行う事による利益を得る事が金銭貸借活動に於いて始まり、この事が「銀行」という資本主義経済の経済活動に於いて要の存在である「銀行」という機構存立の基本要因となっている。そこで、現在のキャッシュレス化は、資本主義経済にとって必要不可欠のものである「貨幣」「通貨」の表向きの存在がなくなる、物品・商品の対価としての使用に用いないだけである。即ち、例えば、帳簿上の金銭授受の計算上などは、以前のままであり、という事は、制度上は、資本主義経済の本質は、不変なままであるという事である。では、もう一つの「利子」についてコメントしておくと、最近の日本における日本銀行の金融緩和政策により、最近まで、長期金利が、負、マイナスの状態に、長い間、陥っていた事を考えてみれば、容易に推察できる。マイナス金利という事は、即ち、利子が付くどころか、逆に、貸し付ければ、貸し付けた金額よりも、少ない金額しか返ってこないという事であり(日本銀行のマイナスの金利は、それ程、単純でないのかもしれないが)即ち、資本主義経済にとっての「銀行」の存在理由である「利子」が存在しないというどころか、マイナス金利であることから、「銀行」が損失を受けると言う事である。このことは、即ち、「銀行」が、この日本における資本主義社会に於いて、従来のような、単なる貸付・回収での利潤のみでの存在理由を持たないという事であり、消滅するという事である。「銀行」が今後も、存続していくには、もっと、別の目的、活動分野、経済活動価値を見出さねばならないという事である。(単なる、小生のド素人の見解、推察に過ぎぬが)

  資本主義経済のシステムは、人類が種々の社会システムを考案・創出して来たが(近年だけに限れば,(日本での明治維新以後)帝国主義国家、社会主義国家、共産主義国家等々)帝国植民主義の植民地諸国の独立・解放による崩壊、ソビエト連邦の崩壊による社会主義共産主義経済体制の崩壊、又、中国の改革・開放路線による市場経済の導入により、資本主義経済システムだけが唯一現在の世界諸国家に於いて、存続しているという現実があるという事はわきまえておかねばならぬ。ただ、其の資本主義経済のシステムの国家運営においても、各国の政策の歴史的経緯等見てみれば、社会福祉政策等の実施や、年金政策、医療保険政策、教育システムの整備等と奨学金給付制度、失業保険給付制度等の政策が為され、もし、現在、話題になっているような、BI(ベーシック・インカム)の実施が為され、普及されれば、赤ちゃんから青少年の学生時代を終えても、20歳から30歳、40才代と必要最小限の生活保障(すべての人々に最低限の衣食住の保証)が為されれば、現実の、スーパー超富裕階層から貧困階層迄、資本の配布分布にとてつもなく、不平等・不均一性・偏在が見られる社会から、少なくとも、すべての人が最低限、衣食住・生活保障が為されるとしたら、今後の将来、例えば、100年後、150年後には(例えば、150年前の明治維新時、江戸時代の崩壊時に於いては、年金制度などなかったし、医療保険制度、義務教育制度、等々の社会福祉制度など存在しなかったのである。)、すべての人々、国民に対して、前述のBI・ベーシックインカムなどにより生活保障が為され、衣食住が保証される世になれば、「通貨」「貨幣」と称される、現在の、紙幣(札)、硬貨(コイン)そのものを必要としない世になるかもしれないと、小生は想像するのである。即ち、お金持ち・富裕層とか貧乏・貧困層とかいう概念も消失して、誰もお金持ちとか、貧乏とか気にもしない世の中になるやもしれないと思うのである。資本主義経済社会の究極的な最終局面の理想的経済体制の到達社会といえるのか、はたまた、逆に、人類人間社会のデストピアと言われ、不幸そのものと感じられる社会なのかは分らぬが(でも、人間、何時の時代、何処の社会でも、ある人にとっては、いいかというだろうし、又、ある人にとっては、悪いと思うだろうし、まー、そんなもんであるが、陰でどうのこうのとか、秘密裡にどうのこうのとか、最低限、そのような事は、人権上、人道上、どうなのかとすべての人々が考えねばならぬ問題であろう)、小生は100年単位での社会体制の変動を考えれば、あながち、考えられない未来社会の到来でないのかもしれない。(もう一度記述すると、150年前の明治維新からの社会の変動の結果が、現代の社会なのである。世の人々が夢想だにも想像できないならば、150年の時代経過の社会変化、社会福祉制度、年金制度、障害年金制度、介護保険制度、子供手当、等々など全く存在さえしなかったのが、全くの不完全ながら整備され、又、整備されつつあるとの現実を、小生が協調しても強調しすぎる事は無いと思っているだけである。)

  ついでに、クールジャパンの事に就いて、一つだけ述べると、どんな文化的事業・教育事業に関しては、利益を上げるとか、儲けるとか、最初から考えるというか、頭の中に入れるべきではないと思うだけである。だから、クールジャパンの、例えば、アニメに興味を持つ若人がその分野に入る時、どの分野でも、最初から、大家・ヒットメーカー・人気作家等と認められることなどないのであるから、多分、補助作業に従事させられるか、お手伝い等の仕事から始めるのであろう。その時の、お給料は、何か漏れ伝え聞くと、現在は生活できない程、安いという。そこで、それに加えるに、上述したBIベーシックインカムの衣食住を保証する支給があれば、それらの若い人々の日常生活に潤い・余裕が出て来るであろうと思うのである。どの分野だって、トップというか、億万単位の稼ぎのある文化人・芸術家・作家等々は、数多のその分野に学習・就業・修得を目指した若人のうちほんの僅か・一握りの人々である。残りの大抵の人々は、BI・ベーシックインカムがあれば、それは、それは、精神的余裕に格段の違いがある生活を送れるだろうと思う。教育でも全く事情は同じで、収入にならない分野の学術研究を専攻しようとする若人・若者にとっても、最低限の衣食住が保証されるならば、それは、精神的安定度が全く異なるであろうという事である。即ち、言いたいことは、文化・教育方面においては、国家というか、大人の機関というか社会は、その分野でやる事に口を出さないで、環境を整えるというか、その分野の政策・創作活動の拠点の整備とか、その種の環境整備を整えてやればいいだけの話である。後は、問題が起きないような組織体制・機関体制を整えてやって、活動は自由にやらせればいいだけの事である。能力のある人は、何時か素晴らしいその分野での作品を産み出すであろうし、又、そうで無いかもしれない。結果を、経済成長か何かで前もって、数字化などを要求する出演した政治家が言ってたが、全くのナンセンスと思っただけである。ほかの、どんな分野の、文化・芸術・教育でも同様であろう。それぐらいの、文化・教育活動を許容する位の余裕を持つ社会でなければ、潤いのある、ゆったりとした社会にならないであろう。

理研BSI(理研脳科学研究センター)から理研CBS(RIKEN Center for Brain Science )への歴代センター長と興味ある研究チーム

前号ブログで挙げた「脳と心のしくみ」(大人のための図鑑)からの理研ホームページを検索して、今迄、記述して来た、理研脳科学の研究センターの変遷が分かったので、歴代センター長などの正確なところを記述しておく。

理化学研究所脳科学研究所センター(BSI);1997年設立(埼玉県和光市

初代BSI所長(1997~2003)     ;     伊藤正男氏                                                                     (元東大医学部長、日本学術会議議長、文化勲章受章者)

研究業績;小脳の神経回路網の構造と機能の作用の解明の提示。

1997年創立のBSI(理研脳科学研究センター)は、理研の戦略センター群の第一号。

第二代BSIセンター長(2003~2008)    ;   甘利俊一氏(東大名誉教授)

情報数学者;研究分野;「脳の数学的モデル」

第三代BSIセンター長(2009~2017)   ;    利根川進氏(ノーベル医学・生理学賞受賞)

理化学研究所神経科学研究センター(RIKEN CBS) へ 衣替え (2018/4/1付け)

初代CBSセンター長(2018~   ) ; 宮下保司氏

以下、理研神経科学研究センターのホームページによるチームの研究分野で、興味を持った分野を挙げておく。なお、これらの列挙は、全く、己自身の興味と纏まりというか整理の為であって、何の他意も無い。

 

 

 

「脳科学」の取っ掛かりに就いての詳細な再録とその近辺の事

前ブログに、理研脳科学総合研究センターの事について述べておいた。

ここでは、話しを、「娘」のお相手の嘘っぱちの経歴などや、結婚式場でのウロチョロするお若い輩らが何でそんな「犯罪行為」を行ってるのかに対してへの「責任を取れ」との腹立たしさを今朝のTVに発声にからつながる事からまず始める事にする。

   「娘」のお相手が、嘘八百の経歴で、「家の奥様」と「娘さん」と一緒のご対面というか、相対してから、家の娘はその後相手とと一緒に同居するようになって、そのお相手が、二階の「奥様さん」と「家の所外を持つ息子」くん処へ、家の娘と一緒に来た時に、俺が、一階の居間で、TVを付けていると、TVに30歳代ぐらいの、映像マッピングかその辺の、お仕事をやられている、東大の工学部の大学院生らと一緒に、起業しているらしいが、その輩等がTVでどうのこうの云ってたが、それは、「家の奥様」「家の娘」もふくめて、「犯罪行為」をやられているのであろうから、その「責任を取れ」と、「家の奥様」に行ってるだけである。ここではその大学院の学科の教授だった情報科学数学の素晴らしい業績のある実力ある学者・研究者で、その後、「脳の機能・作用」等に関する(本当のことを言うと、正確に、間違いなくその内容を述べるだけの知識は無い。つまり、よく分かっていないという事である。もう、10年か、20年も前に、先生御自身が記述された解説を読んだ事があったが、余り、よく、分からなかったからである。) に転向して、つまり、「脳の数学的モデル」の構築に取り組み、前記の、理化学研究所脳科学総合センターの脳に関する数学的モデル理論の責任者というか、部門長のような立場で、現在も、研究を続けている大家の先生である、と思うが、最近は、情報が全然得られないから、さー、どうなんだろう。で、前ブログに記したのは、理研脳科学総合研究センターのセンター長に請われて就任したのは、ノーベル賞受賞者利根川進氏であることの、日本特有の社会雰囲気があることを指摘した。利根川進氏は、ノーベル生理・医学賞を受賞したアメリカ在住の研究者だったが、米国で取り組んだテーマは、全く、「脳科学」とは、別の分野であり、その後の「脳科学」の研究分野に転向した利根川先生の研究で、筆者の知るところでは、「脳科学」に関するマウスを用いた実験研究は、ド素人の筆者でも、さー、どうかな、と首をひねったものである。(利根川先生へどうのこうのと云うことでは無い。全く、その研究の価値・独創性が分かってないだけである。)さて、筆者が、理研のセンター長か、研究所長に、利根川先生より、適任ではないかと、暗に、指摘した、脳の数学的モデルの先駆的研究を行った、そんな、大先生の優秀さを単に記述したいわけではない。俺の本当の事で、前述してあるずーっと以前から抱いている興味は、母国語でと非母国語で各々創造的仕事をする際、場合の相違・違いなどが何処にあるのだろうか?例えば、前述した、「脳の数学的モデル」を創り出した情報数学の東大の名誉教授の先生の「脳」は、その際、どの様に働き、作用・機能してあのような創造的な脳の数学的モデルが産み出されたのかという事の考察・推察が何とかできないのかという事等に関するものである。その場合、比較対象とする例として、例えば、俺のような、能力が愚鈍の場合に同じ母国語で考えても、創造的なものが何も生み出せない場合(大抵の人がそのようでであろうが)の「脳」の働きと比べて、どの様な違い・相違があるのであろうかよ云う事である。さらに、諸外国の場合などでよくみられるだろうが、大学教育というか高等教育(初等・中等教育でもいいが)を、外国語で受ける場合、例えば、パキスタンで11歳の時、アルカイダから銃撃されて、重傷を負った少女・マララが、手術を受けるためイギリスへ渡ったが、後に、ノーベル平和賞を受賞するその負傷した女の娘、ユスワザイ・マララは、渡った英国に於いては外国語で教育を受けている。彼女は、年若いから、外国語である英語は、成長するにつれて、母国語(ネイティブ)になるのであろうが、この違い、非母国語と母国語の「脳」の機能・作用の違いなどは、どの辺にあるのだろうかという設問と、それに付随して、上記のマララのような年若い若人の場合は、外国語である非母国語から、ネイティブの母国語に変遷していく過程(幼い子供や若人の場合、外国語であってもその環境にいれば、ネイティブになって行く。)しかし、大人の場合は、若人と違って、いくら長くその言語環境の中に留まっても、外国語がネイティブ・母国語にならないという?何故なのか?幼い子供と成人した大人の場合と同じ外国語言語環境にいても、母国語・ネイティブになる幼い子供と、非母国語のまま留まる大人の場合は、「脳」の言語機能に於いて、何処がどの様に、違うのか、異なるのかが疑問なのである。そうすると、大人の場合、例えば、ポスドクで、外国に行き、研究活動を行う研究者とか、クリエイターの場合、非母国語で研究活動に従事する場合、創造的活動をするときに於いて、考え、思考、考察等々を行う場合に於いて、外国語で、教育を受けた場合でも、幼い子供というか、若人の迄の場合は、その外国語の環境において(移住した場合など)母国語に変異してしまう、即ち、ネイティブになって、その国で生まれ育った人々と、全く変わりがないという事になるが、大人になってからその外国語の環境に移った場合、(前述したが、ポスドクアメリカや欧州などの大学・研究機関で職を得た場合、日本の大学院博士課程を終えるのは、早くて、28才であるから、30歳前後からその外国語環境で研究活動をする場合などは、普通の事であろう。)たとえ、いくらその言葉の学習・訓練をしたとしても、移住しても、ネイティブ・母国語になれないというのであれば、外国語のままで、非母国語で創造的活動をし、新しいことを、考え、考察をしなければならないという事である。その場合、母国語で行う場合とのハンディキャップはあるのかという事である。二人の同じ能力・実力の研究者がいたとして、片方は、母国語で、何でもやる事が出来ることの有利さと、及び、優位性と、もう一人の別の方が、非母国語(外国語)で、研究活動などを行わざるを得なくて、創造性の源が、非母国語・外国語であった場合の劣位、不利、ディスアドバンテイジ(母国語で行える場合と比較して)はあるのかという設問である。勿論、俺は、その立場の異なる場合においては、違い・相違はあるという主張である。有利・不利というか優位・劣位という事をどのようにして証明できるか、確かめられるか、学問的に主張出来るかという事に、どの様にして取り組んでいけるだろうかという事をまず明確にしなければならぬ。まだ、その段階でうろちょろしているだけなので、何の事は無い。「脳科学」のプロであれば、どうのこうの云うことなしに、すぐにでも取り掛かれるのであろうが、単なる、ド素人・アマチュアである小生の場合は、資料・文献の収集など、色々大変であるが、こんなことは、もう、50年来、大学に入った時から同様で、同じ様な不都合な、困難な事は日常茶飯事であったからである、就職した国立研究機関の研究所でも、同様で、同じような環境であったから、(これらは、人権侵害、犯罪行為であろう。)何の事は無い。そのような犯罪行為・人権侵害を行った人々の「責任は」と、「家の奥様」に問うたことがあるだけである。

  以上のような観点に立てば、現在、日本の教育で行われようとしている英語の早期教育は、日本がどちらの進路方向に向かうのか、即ち、単に表面的な対人交流の為だけのネイティブには到底及ばない英語力の習得を目指しての方向の教育か、日本語という国語を児童・生徒全員がしっかりと身に付けて、全員が、日本人としての最低限の基礎というか、日本人としての品格を有する教育を目指すのかというかの進路選択になるのかもしれないという指摘を最後に挙げておこう。

 

脳科学に関する雑感、三浦瑠麗さんのブログからの北朝鮮のミサイル迎撃に就いての推測などについて

アマゾンから、「脳科学」に関する入門というか、解説の類の新書を、3冊位と、他の「Nature」とか、「日経サイエンス」等の「脳科学」に関する特集号を送ってもらった。解説本のうちの2冊は、理化学研究所脳科学総合センターで著作・編集して、「脳科学の教科書」(こころ編)(神経編);岩波ジュニア―新書として、中高校生用或いは大学生フレッシュマン用か何かに出版したように思われる。後の、1冊は、脳科学総合研究センター長に就任されている、ノーベル生理・医学賞受賞者、利根川進先生が出された「つながる脳科学」[BLUE BACKS](講談社)である。なお、[BLUE BACKS]は、なんか、新サイトが創設されたという事であるから、この利根川先生の著作を眺めてみると、講談社ブルーバックスも再出発したのであろうか?なお、利根川先生について、昨日、別の叙述で不躾な事を記述してしまったが、何の他意もないことを申し述べて、そんな大先生についてどうのこうの述べたのではないという事をここに記しておきたい。筆者は、ド素人・アマチュアなりに、もう。別記してあるが、母国語と非母国語で教育を受けた場合の、研究活動というか、その発想というか、思索活動にどの様な影響を与えるのであろうかなどという疑問というか、発想をもうずっと以前から、抱いていて、例えば、英語圏研究者と日本人などが欧米諸国の研究機関で外国語である非母国語で意思疎通をしながら研究活動行う場合は、その差異、相違はどうなのだろうか?非母国語でも、日本人の様に、高等教育を母国語である日本語で受けられて、研究の基礎となる、知識体系も母国語である日本語の場合と、発展途上国後進国の場合の様に、教育自体も、非母国語である外国語で受けている場合などの場合に、どのような、有利・不利というか、アドバンテイジというか、反対の立場では、どの様なデスアドバンテイジを各々の研究者、何も研究者に限らず、クリエイティブな仕事に関わる職業の人々にとっても同様であろう?しかし、上記の言語の観点から考察しているので、文章家というか、文科系の(人文科学・社会科学・歴史・法学(弁護士)・経済(数学を使う最近の近代経済は、チョット、理科系に近いだろうが))研究者の方が影響が大きいと思われる。逆に、理科系の研究者は、数学という人類・世界共通の言語を駆使する度合いが大きいので(物理とか情報科学とかの方が、地学とか生物とかよりも、言語の関与する度合いが少ないと思わる。)学問というか,その分野毎に、影響の度合いが異なってくるであろうことは、全く、当然な事である。

  で、別記に、何も、脳科学研究にノーベル賞受賞後に転向した利根川先生がセンター長に就くよりも、脳の働きの数学モデルの独創的研究で知られている東大の先生、もう、名誉教授だったかな、その先生も、同じ脳科学総合研究センターに、いるのじゃなかったかな、でも、片方は、一応、ノーベル賞をもらって、名前が、一般受けしているから、所長と言うかセンター長に利根川先生がリクルートされたというか、就任を要請されたに過ぎないというのが当時の俺の見解であるが、何も俺みたいな、社会からの排斥者が、素浪人がどうのこうの、言って、評価する事でもない、する者でもないのは当たり前のことである。

 最近、若手美人国際政治学者;三浦瑠麗さんのブログに目を通しているが、ずっと以前の、北朝鮮に関するブログを昨夜は読んでみた。もう、2~3年前から、北朝鮮からのミサイルを迎撃するの米国製の陸上型ミサイルシステム「イージス・アショア」を秋田と山口の日本海側に配備するというニュースなどが報じられ、昨夜の「報道ステーション」でも、キャスター等とは別に、筆者がその以前から迎撃そのものに無理があるのではと思ってる簡単な推理を以下に、記すことにする。例えば、北朝鮮と日本との距離を、凡そ、1,000kmとすると、ミサイルの速度は、人工衛星になるには、約8km/秒であるから、大体、秒速5km/秒とすると、100km進むのに、たった、20秒しかかからない事のなる。ミサイル発射から攻撃飛行の様子は、監視衛星などで、ミサイルのロケット噴射の熱源を熱・高温度センサーなどで確認するのだろうが、発射してから直ぐにとは絶対にはいかないであろう。少なくとも、20~30秒とか1分とかは、最小限の時間がかかるのであろうなどとは、誰でも、分かる事である。1分後に迎撃ミサイルを発射したとするならば、もう、300km位飛んでいることになる。秋田や山口から、例えば、東京は、少なくとも、500kmは離れているのだから、迎撃ミサイル基地の秋田や山口にそのまま向かって来るならともかく、500kmも離れて、飛んでいるミサイルを迎撃するには、迎撃ミサイルもそこまで飛んでいかねばならないという事である。即ち、結論は、こうである。攻撃ミサイルを監視衛星か何かで発射から飛行を感知して、迎撃ミサイルを発射するまでに、もう、北朝鮮のミサイルは、300kmか500km位進んでいるのに、それを迎撃するミサイルがその迎撃地点まで、又、500km飛んでいかねばならぬとすると、その間に、攻撃ミサイルは、又500km進んでいるという事である。監視衛星で感知して、迎撃ミサイルの発射までの距離300~500kmに発射してから迎撃までの距離500kmを加えると、もう、800kmとか、1000kmになってるのであり、いくら宇宙空間までの放物線飛行をするとしても、高度は、精々、100km程度であるから(大気圏は約10kmで,100kmより上空は宇宙空間である。)、すでに、日本本土に到達していることになるのは、誰が考えても、納得せざるを得ないと思っていたのだが、防衛省とかの担当者は、当然、日本の何処に飛んできても、日本本土に達する前に迎撃できるという時間計算をしているのであろうから、そのデータを示していただけなければ、もう、「イージス・アショア」を設置する費用・経費等の何千億円とかが全くの無駄になるのではないのかと、去年か、2~3年前にそのニュースをTVか新聞で聞いたときに、ただ、思っただけであるが、何も、俺みたいのが言っても、当然、各省庁の(防衛省)担当者は、すべてのケースというか、あらゆる場合を想定して、迎撃に要する時間など検討しているのであろうから、普通、その様な検討した予備想定などの資料を支障がない限り、公開してくれなければ、国民は判断のしようがないという事である。そんなこと言うのは、俺だけとしたら、どういういう事であろうかと思っているのであるが。その他の場合にでも同様であるのだが、TVとかの放送局などのマスメディアもそのような、大体の凡そでもよいから、推定などを当然なされないのであろうかと、もう、学生のころからの、何十年も思っていることである。三浦瑠麗さんのブログの内容には触れられなかったが、次回に別のブログの題目と共に、記述することにする。

日本女子ソフトボール監督宇津木妙子・麗華親子二代監督業と上野由紀子投手、その他の事

今は、13日を過ぎて、14日の夜中から,もう、3時・4時である。相変わらず、生活時間が不規則である。昨夜は、郵便局のATMでの支払いや、三井住友銀行の通帳記帳の後、生協・COOPさんに定期的な食材の注文のリストの書類を提出したつでに、何時もの通り、厚志君にお茶のペットボトルとかを、各種そろえて帰宅したのが8時前だったから、その後、二階の厚志君とこへ買い物を持ってったりしてから、TVをつけてソファーでゆったりしていたらそのまま寝込んでいたらしい。目が覚めたら夜中の二時頃だった。ベッドに移って少し横になってたが、もう目が覚めていて、三時か四時前に起きだる。それで、飲み物、食べ物を揃えてから、今こうしてパソコンに向かっているのである。この様に、生活スタイルが少し乱れだしてから、暫く経つが、(2~3か月か、3~4か月か,5~6か月か、分からぬが。) この頃の方が、書き物も、パソコンに打ち込むのも、以前と違って、曲がりなりにも、何とかできるようになっただけである。

  さて、  8/12(日) ;女子ソフトボールの世界大会:国際試合の準決勝と決勝が行われた。;前日の準決勝で、アメリカに敗れてた日本は(アメリカのエース・アボットと投げ合った上野以外の日本の投手(この日は、中堅の27才、藤田投手であった.) を始めてみた、この日、午後の二時頃からカナダ戦を、上野の先発完投で快勝し、夜、七時過ぎからの、前日、上野の永遠のライバル、アメリカの左腕・アボットにしてやられた日本は、上野の連投で(アメリカは、アボットの連投はせず、若手の投手5人の継投であった。このような点からも、筆者は日本とアメリカ、ひいては、欧米諸国との文化の違い、考え方の違いを何時も感じるのである。日本では、例えば、高校野球の甲子園で、僅か、17・18歳の少年ピッチャーの何試合もの連投をある意味褒めたたえる雰囲気・環境(マスコミなどもそうである。) 及び、その当人のそれから以後の彼の長い人生での身体へのケアーなど考えないのである。それが筆者のこれまで、記述して来た、「鳥瞰図」的見方と「虫瞰図的」見方(各個々人を大切に思う社会の見方)に反する事である。なお、東大医学部の偉い教授だった何とか先生とアニメ界の大御所何とかさんが上記の「虫瞰図」を「アテツケ」か「いやがらせ」か、「虫眼とアニ眼」と題した文庫本を出している。中身は読んでいないのでわからないが、、さぞかし立派な内容なのであろう。)、世界大会の優勝戦に臨んだが夢かなわず、上野にしては、まさかの7点もの失点で敗れた。

  さて、本題に入るが、現在の日本女子ソフトボールの監督、宇津木麗華監督(名前が違ってたらごめんなさい。)は、中国生まれの(多分、調べて、確認しているわけではないが。)、中国人だったのが、日本でプレイするようになり(その経緯が、その後の宇津木妙子監督がTV等に出た時、触れるのかなーと注意して(このような時は、TVにでも、注意を払っている。)、2000年前後、多分、それより、ずっと以前だと思うが、日本代表の不動の4番バッターとして、活躍し始めたのを、目にとめたのが、宇津木妙子(この事も、名前が違ってたらごめんなさい.)という、その当時の監督に興味を持ったきっかけである。それから、総監督になり、(監督を、宇津木麗華に譲って) 最近、TVの解説にも出て来なくなったなーと思っていただけである。中国人であった麗華が日本代表の代表選手になるには、日本国籍を持ってないと、なれるわけがないし、如何なもんかなーと思ってたが,宇津木妙子さんの話から、俺が想像するに、宇津木妙子さんが、麗華を養子というか、親子縁組を結んで、日本に迎え入れたのであろうという事である。確かではなく、単に、TV等からの俺の推測である。そこに、どんな経緯があったのかは分からない。でも、それが、「虫瞰図」的見方の典型であろうと思っているだけである。勿論、背景に、妙子さんが、中国と日本という国家間に対する「鳥瞰図」的見方のナイーブでも心に有していたからでもあるに違いない。多分、ソフトボール一辺倒だった妙子さんに、そんな、日中間の国際関係に関する学識があるだろうとは思わなかったのであるが、これは、宇津木妙子さんへの無礼・申し訳ないことかもしれない。

  宇津木妙子さんは、女性にしては、ぶっきらぼうな話しぶりで、如何にも、スポーツの指導者として、例え、女性としても、古いタイプに属するのやもしれない。だから、上野などは、宇津木妙子さんのソフトボールでの指導者としての経歴では、あとの方に属する教え子の選手なのだろう。でも、俺が宇津木妙子さんの解説、話しから感じていたのは、科学的セオリーを十分に取り入れて、又、取り入れられる指導者だなーと感心する落ち着いた、冷静な解説というか、人生観も感じさせられる話しぶりから、麗華を中国から、迎え入れるのに、勿論、中国もアジアでは、日本とトップを競っていたチームであるから、その、ライバル国の主力を迎え入れるのに、どの様な軋轢というか、ドラマがあったのだろうかと思うのである、その様な経緯を、宇津木妙子さん本人か、養女である、勝手に俺は決めつけているが、麗華さん自身から語ってほしいものである。或いは、双方の、妙子、麗華のお二人から指導・薫陶を受けている今後の指導者になるやもしれぬ上野由紀子らの選手自身らから語ってほしいものである。宇津木妙子監督の世代のスポーツの女性指導者には、妙子さんと同タイプの指導者が多いと(数は、当然、女性スポーツ選手から指導者に転身された人数が少ないだろうから、70代か、70才前後の女性スポーツ指導者の人は、多くは無いが。) 例を挙げると、シンクロナイズ、現在の教義の呼び方は違うらしいが、の井村さん何かも同タイプであり、男性指導者なら、現在、色々、問題になっているようなスポーツ・運動界にごまんといるやもしれぬ。だが、井村さんなんかも、中国ナショナルチームのコーチになって、中国に行ってたから、宇津木さんなんかの養女・養子縁組の場合でも、裏で、陰で何かがあるのかもしれぬ。俺が思うに、女性スポーツの各段階に、女性指導者の必要性を述べてきたが、単に、女性であるだけで、古いタイプの男性指導者と同じ哲学・指導原理・精神論を持ってるならば、何も女性である必要も無いであろう。同じ、同性である、「虫瞰図」的精神をもって、後輩-年少の女の娘等の指導に当たられ、彼女らの指導者である人生の先輩女性等より、後の時代までを生きてゆかねばならぬ女の͡娘・子供等への何らかの、精神的支柱・物的設計図的ものを、残せれば、それ程いい事は無いであろう?

もっと他の問題というか、このようなものは、スポーツに限らぬのであるから、数多くあるのだが、スポーツに限らず、アイドルの指導者らしき人物の朝日新聞への文章などを読むと、果たして、どのくらい、お若い女の子らを「鳥瞰図」的に考え、「虫瞰図的」に思っているのだろうか、それらの人々、今迄、もう、数多くの人数になるが、直接尋ねたいものであると思っているだけであるが?

  何も、このようなことは、お年を召した中年・高齢者ばかりでなく、例えば、一つ、例を挙げると、沖縄出身の女性・同級生デユェット「きらら」のお二人の多分、沖縄からのTV放送で述べた言葉の説明を必ずしてもらわねばならないと思っている。今まで、筆者が指摘してきたことの、人として、人間して、最低限、「厚志」君の事は、きららのお若いお嬢さん方は、どのような見解をお持ちなのか、簡単な事であろうから、TV等の公の場で述べたのだから、俺の尋ねていることに答えねばならぬ。お二人とも、お子さんをお持ちのようであるから、母親としてさぞかし、ご立派なお考えをお持ちなのであろう?

  何も、俺からどうのこうのを、60何年間か、やったことはない。「社会の犯罪」と指摘していることを、そのまま、うやむやにする「社会の犯罪」を考え続けているだけである。