空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

「脳科学」の取っ掛かりに就いての詳細な再録とその近辺の事

前ブログに、理研脳科学総合研究センターの事について述べておいた。

ここでは、話しを、「娘」のお相手の嘘っぱちの経歴などや、結婚式場でのウロチョロするお若い輩らが何でそんな「犯罪行為」を行ってるのかに対してへの「責任を取れ」との腹立たしさを今朝のTVに発声にからつながる事からまず始める事にする。

   「娘」のお相手が、嘘八百の経歴で、「家の奥様」と「娘さん」と一緒のご対面というか、相対してから、家の娘はその後相手とと一緒に同居するようになって、そのお相手が、二階の「奥様さん」と「家の所外を持つ息子」くん処へ、家の娘と一緒に来た時に、俺が、一階の居間で、TVを付けていると、TVに30歳代ぐらいの、映像マッピングかその辺の、お仕事をやられている、東大の工学部の大学院生らと一緒に、起業しているらしいが、その輩等がTVでどうのこうの云ってたが、それは、「家の奥様」「家の娘」もふくめて、「犯罪行為」をやられているのであろうから、その「責任を取れ」と、「家の奥様」に行ってるだけである。ここではその大学院の学科の教授だった情報科学数学の素晴らしい業績のある実力ある学者・研究者で、その後、「脳の機能・作用」等に関する(本当のことを言うと、正確に、間違いなくその内容を述べるだけの知識は無い。つまり、よく分かっていないという事である。もう、10年か、20年も前に、先生御自身が記述された解説を読んだ事があったが、余り、よく、分からなかったからである。) に転向して、つまり、「脳の数学的モデル」の構築に取り組み、前記の、理化学研究所脳科学総合センターの脳に関する数学的モデル理論の責任者というか、部門長のような立場で、現在も、研究を続けている大家の先生である、と思うが、最近は、情報が全然得られないから、さー、どうなんだろう。で、前ブログに記したのは、理研脳科学総合研究センターのセンター長に請われて就任したのは、ノーベル賞受賞者利根川進氏であることの、日本特有の社会雰囲気があることを指摘した。利根川進氏は、ノーベル生理・医学賞を受賞したアメリカ在住の研究者だったが、米国で取り組んだテーマは、全く、「脳科学」とは、別の分野であり、その後の「脳科学」の研究分野に転向した利根川先生の研究で、筆者の知るところでは、「脳科学」に関するマウスを用いた実験研究は、ド素人の筆者でも、さー、どうかな、と首をひねったものである。(利根川先生へどうのこうのと云うことでは無い。全く、その研究の価値・独創性が分かってないだけである。)さて、筆者が、理研のセンター長か、研究所長に、利根川先生より、適任ではないかと、暗に、指摘した、脳の数学的モデルの先駆的研究を行った、そんな、大先生の優秀さを単に記述したいわけではない。俺の本当の事で、前述してあるずーっと以前から抱いている興味は、母国語でと非母国語で各々創造的仕事をする際、場合の相違・違いなどが何処にあるのだろうか?例えば、前述した、「脳の数学的モデル」を創り出した情報数学の東大の名誉教授の先生の「脳」は、その際、どの様に働き、作用・機能してあのような創造的な脳の数学的モデルが産み出されたのかという事の考察・推察が何とかできないのかという事等に関するものである。その場合、比較対象とする例として、例えば、俺のような、能力が愚鈍の場合に同じ母国語で考えても、創造的なものが何も生み出せない場合(大抵の人がそのようでであろうが)の「脳」の働きと比べて、どの様な違い・相違があるのであろうかよ云う事である。さらに、諸外国の場合などでよくみられるだろうが、大学教育というか高等教育(初等・中等教育でもいいが)を、外国語で受ける場合、例えば、パキスタンで11歳の時、アルカイダから銃撃されて、重傷を負った少女・マララが、手術を受けるためイギリスへ渡ったが、後に、ノーベル平和賞を受賞するその負傷した女の娘、ユスワザイ・マララは、渡った英国に於いては外国語で教育を受けている。彼女は、年若いから、外国語である英語は、成長するにつれて、母国語(ネイティブ)になるのであろうが、この違い、非母国語と母国語の「脳」の機能・作用の違いなどは、どの辺にあるのだろうかという設問と、それに付随して、上記のマララのような年若い若人の場合は、外国語である非母国語から、ネイティブの母国語に変遷していく過程(幼い子供や若人の場合、外国語であってもその環境にいれば、ネイティブになって行く。)しかし、大人の場合は、若人と違って、いくら長くその言語環境の中に留まっても、外国語がネイティブ・母国語にならないという?何故なのか?幼い子供と成人した大人の場合と同じ外国語言語環境にいても、母国語・ネイティブになる幼い子供と、非母国語のまま留まる大人の場合は、「脳」の言語機能に於いて、何処がどの様に、違うのか、異なるのかが疑問なのである。そうすると、大人の場合、例えば、ポスドクで、外国に行き、研究活動を行う研究者とか、クリエイターの場合、非母国語で研究活動に従事する場合、創造的活動をするときに於いて、考え、思考、考察等々を行う場合に於いて、外国語で、教育を受けた場合でも、幼い子供というか、若人の迄の場合は、その外国語の環境において(移住した場合など)母国語に変異してしまう、即ち、ネイティブになって、その国で生まれ育った人々と、全く変わりがないという事になるが、大人になってからその外国語の環境に移った場合、(前述したが、ポスドクアメリカや欧州などの大学・研究機関で職を得た場合、日本の大学院博士課程を終えるのは、早くて、28才であるから、30歳前後からその外国語環境で研究活動をする場合などは、普通の事であろう。)たとえ、いくらその言葉の学習・訓練をしたとしても、移住しても、ネイティブ・母国語になれないというのであれば、外国語のままで、非母国語で創造的活動をし、新しいことを、考え、考察をしなければならないという事である。その場合、母国語で行う場合とのハンディキャップはあるのかという事である。二人の同じ能力・実力の研究者がいたとして、片方は、母国語で、何でもやる事が出来ることの有利さと、及び、優位性と、もう一人の別の方が、非母国語(外国語)で、研究活動などを行わざるを得なくて、創造性の源が、非母国語・外国語であった場合の劣位、不利、ディスアドバンテイジ(母国語で行える場合と比較して)はあるのかという設問である。勿論、俺は、その立場の異なる場合においては、違い・相違はあるという主張である。有利・不利というか優位・劣位という事をどのようにして証明できるか、確かめられるか、学問的に主張出来るかという事に、どの様にして取り組んでいけるだろうかという事をまず明確にしなければならぬ。まだ、その段階でうろちょろしているだけなので、何の事は無い。「脳科学」のプロであれば、どうのこうの云うことなしに、すぐにでも取り掛かれるのであろうが、単なる、ド素人・アマチュアである小生の場合は、資料・文献の収集など、色々大変であるが、こんなことは、もう、50年来、大学に入った時から同様で、同じ様な不都合な、困難な事は日常茶飯事であったからである、就職した国立研究機関の研究所でも、同様で、同じような環境であったから、(これらは、人権侵害、犯罪行為であろう。)何の事は無い。そのような犯罪行為・人権侵害を行った人々の「責任は」と、「家の奥様」に問うたことがあるだけである。

  以上のような観点に立てば、現在、日本の教育で行われようとしている英語の早期教育は、日本がどちらの進路方向に向かうのか、即ち、単に表面的な対人交流の為だけのネイティブには到底及ばない英語力の習得を目指しての方向の教育か、日本語という国語を児童・生徒全員がしっかりと身に付けて、全員が、日本人としての最低限の基礎というか、日本人としての品格を有する教育を目指すのかというかの進路選択になるのかもしれないという指摘を最後に挙げておこう。