空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

資本主義経済社会の最終的形態に就いての推論

昨夜、BS日テレ「深層NEWS」で諸外国に比べての、特に、中国に比較しての、我が国のキャッシュレス化の遅れに就いて、その前日には、クールジャパンに就いての議論を放映していた。筆者が思うに、資本主義の基本的定義は、「貨幣」「通貨」を用いて、経済活動を行い、イタリアの都市国家に於いて、特に、メディチ家に於いて、「利子」の概念が発生し、その活用を行う事による利益を得る事が金銭貸借活動に於いて始まり、この事が「銀行」という資本主義経済の経済活動に於いて要の存在である「銀行」という機構存立の基本要因となっている。そこで、現在のキャッシュレス化は、資本主義経済にとって必要不可欠のものである「貨幣」「通貨」の表向きの存在がなくなる、物品・商品の対価としての使用に用いないだけである。即ち、例えば、帳簿上の金銭授受の計算上などは、以前のままであり、という事は、制度上は、資本主義経済の本質は、不変なままであるという事である。では、もう一つの「利子」についてコメントしておくと、最近の日本における日本銀行の金融緩和政策により、最近まで、長期金利が、負、マイナスの状態に、長い間、陥っていた事を考えてみれば、容易に推察できる。マイナス金利という事は、即ち、利子が付くどころか、逆に、貸し付ければ、貸し付けた金額よりも、少ない金額しか返ってこないという事であり(日本銀行のマイナスの金利は、それ程、単純でないのかもしれないが)即ち、資本主義経済にとっての「銀行」の存在理由である「利子」が存在しないというどころか、マイナス金利であることから、「銀行」が損失を受けると言う事である。このことは、即ち、「銀行」が、この日本における資本主義社会に於いて、従来のような、単なる貸付・回収での利潤のみでの存在理由を持たないという事であり、消滅するという事である。「銀行」が今後も、存続していくには、もっと、別の目的、活動分野、経済活動価値を見出さねばならないという事である。(単なる、小生のド素人の見解、推察に過ぎぬが)

  資本主義経済のシステムは、人類が種々の社会システムを考案・創出して来たが(近年だけに限れば,(日本での明治維新以後)帝国主義国家、社会主義国家、共産主義国家等々)帝国植民主義の植民地諸国の独立・解放による崩壊、ソビエト連邦の崩壊による社会主義共産主義経済体制の崩壊、又、中国の改革・開放路線による市場経済の導入により、資本主義経済システムだけが唯一現在の世界諸国家に於いて、存続しているという現実があるという事はわきまえておかねばならぬ。ただ、其の資本主義経済のシステムの国家運営においても、各国の政策の歴史的経緯等見てみれば、社会福祉政策等の実施や、年金政策、医療保険政策、教育システムの整備等と奨学金給付制度、失業保険給付制度等の政策が為され、もし、現在、話題になっているような、BI(ベーシック・インカム)の実施が為され、普及されれば、赤ちゃんから青少年の学生時代を終えても、20歳から30歳、40才代と必要最小限の生活保障(すべての人々に最低限の衣食住の保証)が為されれば、現実の、スーパー超富裕階層から貧困階層迄、資本の配布分布にとてつもなく、不平等・不均一性・偏在が見られる社会から、少なくとも、すべての人が最低限、衣食住・生活保障が為されるとしたら、今後の将来、例えば、100年後、150年後には(例えば、150年前の明治維新時、江戸時代の崩壊時に於いては、年金制度などなかったし、医療保険制度、義務教育制度、等々の社会福祉制度など存在しなかったのである。)、すべての人々、国民に対して、前述のBI・ベーシックインカムなどにより生活保障が為され、衣食住が保証される世になれば、「通貨」「貨幣」と称される、現在の、紙幣(札)、硬貨(コイン)そのものを必要としない世になるかもしれないと、小生は想像するのである。即ち、お金持ち・富裕層とか貧乏・貧困層とかいう概念も消失して、誰もお金持ちとか、貧乏とか気にもしない世の中になるやもしれないと思うのである。資本主義経済社会の究極的な最終局面の理想的経済体制の到達社会といえるのか、はたまた、逆に、人類人間社会のデストピアと言われ、不幸そのものと感じられる社会なのかは分らぬが(でも、人間、何時の時代、何処の社会でも、ある人にとっては、いいかというだろうし、又、ある人にとっては、悪いと思うだろうし、まー、そんなもんであるが、陰でどうのこうのとか、秘密裡にどうのこうのとか、最低限、そのような事は、人権上、人道上、どうなのかとすべての人々が考えねばならぬ問題であろう)、小生は100年単位での社会体制の変動を考えれば、あながち、考えられない未来社会の到来でないのかもしれない。(もう一度記述すると、150年前の明治維新からの社会の変動の結果が、現代の社会なのである。世の人々が夢想だにも想像できないならば、150年の時代経過の社会変化、社会福祉制度、年金制度、障害年金制度、介護保険制度、子供手当、等々など全く存在さえしなかったのが、全くの不完全ながら整備され、又、整備されつつあるとの現実を、小生が協調しても強調しすぎる事は無いと思っているだけである。)

  ついでに、クールジャパンの事に就いて、一つだけ述べると、どんな文化的事業・教育事業に関しては、利益を上げるとか、儲けるとか、最初から考えるというか、頭の中に入れるべきではないと思うだけである。だから、クールジャパンの、例えば、アニメに興味を持つ若人がその分野に入る時、どの分野でも、最初から、大家・ヒットメーカー・人気作家等と認められることなどないのであるから、多分、補助作業に従事させられるか、お手伝い等の仕事から始めるのであろう。その時の、お給料は、何か漏れ伝え聞くと、現在は生活できない程、安いという。そこで、それに加えるに、上述したBIベーシックインカムの衣食住を保証する支給があれば、それらの若い人々の日常生活に潤い・余裕が出て来るであろうと思うのである。どの分野だって、トップというか、億万単位の稼ぎのある文化人・芸術家・作家等々は、数多のその分野に学習・就業・修得を目指した若人のうちほんの僅か・一握りの人々である。残りの大抵の人々は、BI・ベーシックインカムがあれば、それは、それは、精神的余裕に格段の違いがある生活を送れるだろうと思う。教育でも全く事情は同じで、収入にならない分野の学術研究を専攻しようとする若人・若者にとっても、最低限の衣食住が保証されるならば、それは、精神的安定度が全く異なるであろうという事である。即ち、言いたいことは、文化・教育方面においては、国家というか、大人の機関というか社会は、その分野でやる事に口を出さないで、環境を整えるというか、その分野の政策・創作活動の拠点の整備とか、その種の環境整備を整えてやればいいだけの話である。後は、問題が起きないような組織体制・機関体制を整えてやって、活動は自由にやらせればいいだけの事である。能力のある人は、何時か素晴らしいその分野での作品を産み出すであろうし、又、そうで無いかもしれない。結果を、経済成長か何かで前もって、数字化などを要求する出演した政治家が言ってたが、全くのナンセンスと思っただけである。ほかの、どんな分野の、文化・芸術・教育でも同様であろう。それぐらいの、文化・教育活動を許容する位の余裕を持つ社会でなければ、潤いのある、ゆったりとした社会にならないであろう。