空想四方山日記

日々の出来事に関する社会科学・倫理科学的観点から人道・道徳的社会の機微を記述する。

三浦瑠麗氏の公式マガジンブログ「自分で考えるための政治の話」を眺めての雑感

三浦瑠麗しの公式マガジンブログバックナンバー「Vol.39] (2018/8/1配信)

「中国恐怖症の誕生、第12回」を閲覧して。

 

日中貿易関係;:非対称の経済関係 (日本は、中国からの輸入が最も多い。にもかかわらず、日本での、中国の輸入品の存在感がない。)

以上の、三浦瑠麗氏のブログの導入部・最初の論旨の述べたいこと。その後で、企業合併や(M&A)の日本と欧州の環境の相違から来るにほんでの中国企業の躊躇などや、中国人による、不動産・土地の購入による、北海道などの水源地の買い占めの不安、米軍・自衛隊の基地の近隣地の買い占めによる安全保障への問題を指摘する識者がいることに対する問題がないという論説などが主であるが、ここでは、一番最初の冒頭に記した中国産製品に対する日本人の評価の低さに対する雑感と、産業工業化社会における必然性ともいうべきものであるとの筆者の認識のあれこれをここに記述する.

  中国に、進出している日本企業が生産した製品を、日本に輸出する場合(日本は輸入するという事になる。このような事は、グローバル社会の今となっては、ありふれたことで、例えば、日本の自動車産業アメリカやメキシコに、工場を建てて、生産している際の、アメリカ大統領の発言があれやこれやと問題になってるのはこの例である。) 中国産(Made in China) であることを隠すというか、表に出さないのが日本人の現在の普通の振る舞い・行動パターンであるようである。中国製品は、粗悪品のイメージがあるので、中国産製品を表に出すメリットが少ないのであろう。

  現在、日本製品は、高品質・高性能のブランドで世界に通用している、最近はちょっと違うようであるが、一応、1980年代かそのあたりから、高品質の日本製品という事で、世界の市場で認知されてるようである。しかし、筆者は、昭和24年生まれの高齢者であるが、子供のころ、新聞に目を通し始めたのは、小学4~5年の頃からで、即ち、1960年頃、少し前の頃からである。(昭和33~34年頃、日米安保改定が昭和35年、1960年である。) その時あたりか、その前の日本製品アメリカに輸出されたものは、即ち、戦後の昭和20年代か30年代の中頃までは、(1960年代の初期までは) 日本製品の一部分、あるものも同様に、粗悪品のイメージがアメリカの人々にあったというのが普通に思われていたものである。筆者の印象に残っているのは、戦後、日本のアメリカへの主力輸出品であった,「おもちゃ」(プラスチックは当時、発明されてなかったろうから、ブリキ製か、セルロイドとかの製品だったのではないかと思われる。) とかの軽産業製品は、現在の、或いは少し以前の中国製品と同様な扱いをアメリカで受けていたのである。アメリカの子供らが、何らかの記念日とかの時に、(たとえば、誕生プレゼント) Made in Japan の製品のプレゼントを受け取った時には、その日本製というのを

目にした時には、泣きじゃくって嫌だとわめく子供がいて、親に別のを買ってと駄々をこねたというエピソードをなにかの新聞か何かで読んだことがある。それ程、子供にとっても、日本製の製品が粗悪品・安物品というので通っていたのである。その後、電化製品などで日本製(Made in Japan) が良品・高品質・高性能の製品であると認知されたのは、昭和40年代から、(1970年代あたりから) ではないだろうか?即ち、何が言いたいのかというと、日本も、現在の中国製品と同じような粗悪品・安物品のイメージが付きまとわれた時期を経て、1980年代からの日本製品の高品質の信頼性の高いMade i n Japan の製品になってきたという事である。何事も、一足飛びに、高品質の製品の評判が得られるわけがないという事である。という事は、現在でも、中国製品のある分野の物は、高品質のものがあるのであるから、あと、10-20年もすれば、全ての分野の製品で、高品質の日本製品の品質を上回り、中国製の製品が,高品質・高性能を代表するブランドになる事になることが十分考えられるという事である。歴史というのは、そういうものである。でも、その様になるには、向上・改良・高品質を目指す努力が必要十分条件であるという事である。(その国の産業においてさえも、裏の、陰の事情は、人それぞれ、親などから言われるのと似ているが、個人の学習の努力とかと全く同様であるというのが、小生の推察である。) 中学二年の数学に出てくる数学の論理関係の、必要条件、十分条件必要十分条件等で表されるということでもある事をここに示しておこう。日本の輸入額で、中国からのが、世界で断トツでトップという事を、日本人があまり認めたがらないのは、中国という国・中国人に対する何か人種差別的な感情が心のどっかにあるからであろう。必要条件だけでも、十分条件だけでも、不足であり、必要十分条件でなければならないのは、工場での製造・改良・改善に努力したにも関わらず、必ず、品質が良くなり、他国で、評判が良くなり、イメージが良くなるとは限らないからである。ほかの例では、勉強を努力して、頑張ったけれども、必ずしも、試験とかテストの成績が点数が良くなる、上がるとは、限らないことであり、上記の日本の工業製品が良くなり・イメージアップしたのも、努力とか、環境とかの必要十分条件が要球された事を、日本企業の日本人経営者・労働者が努力して、頑張って満たし、乗り越えたのであり、クリアしたのであって、それと同様に、中国製が、今後、高品質製品として、イメージアップするかどうかの判定には中国企業の中国人経営者・労働者等が、日本における以前のと同様な(現在の日本がその様であるかどうかは、筆者には、分からないし、言えないという事だけである。)、必要十分条件の中国国家・国民、中国企業・中国人経営者・労働者等すべての勤勉な努力を要するのだけは確かであろう。